知花竜海の音楽凡楽

ロック・レゲエ・ヒップホップ・沖縄民謡などをチャンプルーしたサウンドに、言葉遊びと深いメッセージをちりばめた歌詞で新世代の沖縄音楽を創り続けるミュージシャン/プロデューサー知花竜海(DUTY FREE SHOPP.)が、活動情報や日々のつれづれなどを書いていきます。

落ち穂2:『芝居の神様』

琉球新報コラム 落ち穂
第ニ回 (07/1/24掲載分)
『芝居の神様』

 沖縄にはウチナー芝居や舞台の公演などの時に、客席でちょくちょく見かける「芝居の神様」がいた。舞台人の間ではその人が会場に来ていれば公演は成功すると言われ、受付はいつも顔パスで、楽屋弁当まで出されていたという。「いっちゃん」という愛称で親しまれたその人を一番最初に見たのは確か小学生の頃だ。母に連れられて行った今は無き那覇の小劇場ジャンジャンでの津軽三味線奏者・高橋竹山の公演だった。一見浮浪者と見まがうようなその風体とトレードマークのキャップ。シワだらけの黒い肌とギョロっとした目。「あの人は何者なんだろう」と子供心に強く印象に残った。
 その後幾度も幾度も、心に残る名公演の会場でニコニコ笑っている彼を見かけては、密かに気にしていた。何故か僕の中では山之口獏の座布団の詩の人物とイメージが重なって見えた。
 2000年に僕も音楽で参加した演劇企画魚の目の公演「イッパイイッパイ!」では、全八回公演全てに彼は来た。彼が居るから絶対に公演は成功するという安心感があった。
 そんな彼が食べ物を喉に詰まらせて亡くなったと友人から聞いたのは昨年のこと。喜名定市さんという名前だったことも新聞で初めて知った。享年68歳だったというが、もっとおじぃに見えた。
 僕が最後に彼を見たのは、「肝高の阿麻和利」の国立劇場公演だっただろうか。晩年も「お笑い米軍基地」や「めいどいん栄町市場」など、常に沖縄文化が交差する最先端の「場」に必ず彼は居た。それが「たまたま」だったのか、本当に「神様」だったのかは今となってはもう分からない。ただ、彼の死と共に沖縄の芝居のひとつの時代も終わったような気がする。
 戦後、復帰後、移り変わり行く時代の中で常に芝居を、舞台を、芸能を、見続けたいっちゃん。彼を見かけた公演を聞き取り調査して「いっちゃん年表」を作ったりしたら、案外そこから「沖縄の未来」が見えてきたりするのかもしれない。何も語ることなく亡くなった彼のかわりに、僕らが彼と彼が生きた時代のことを語り次いで行きたい。


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